2018.9.22〜23 山こじ通信番外編
南ア・両俣小屋訪問
野呂川出合・・・
芦安からバスに乗り、南アルプス林道を広河原へ・・・、ここは日本第二の高峰北岳の登山口でにぎわう、南アルプスの中でも一番の登山基地だ。
ここからバスを乗り継ぎ、北沢峠へと向かう途中に野呂川出合というバス停がある。
このバス停で降りる人々の大半が釣り人で、手にザックに釣竿を所持している。
野呂川はヤマトイワナの生息地としても有名な所だ。
野呂川出合とは南アルプスを南北に流れる野呂川に北沢峠からの北沢が注ぐところだ。
ここから8km林道を歩いたところに女傑と呼ぶに相応しい小屋番が棲む、両俣小屋がある。
もともと彼女は広河原にある広河原ロッジに昭和53(1978)年から勤めていて、昭和55(1980)年の5月に長年両俣小屋の管理をしていた、千野辰美さんが肝硬変で亡くなられ、急遽、村の人に頼んで両俣小屋の管理人にさせてもらった。 小屋番の名は星美知子さん。今年で彼女がこの小屋の管理を受け持ってから36年の歳月が流れた。
「電気も水道もない場所ででも自分が生きられるか」
と言う、血気盛んな若者特有の情熱がそうさせたのかもしれない。
両俣小屋は当時芦安村村営の小屋で、毎日バスが列をなしてくる広河原に極近の広河原ロッジ(現南アルプス市営広河原山荘)と違い、北岳を仰ぎ見るのは同じだが、表裏正反対の山奥に位置し、さらに林道から2時間もの距離にあり不便この上なく、なかなか管理人になろうという者がいなかった。
昭和25(1950)年生まれの星美知子さん30歳の時で、管理人としても一人の人間としてもまだまだ若く未熟で、都会の会社勤めのサラリーマンとしても経験がまだまだ足りないと言われる歳である。
小屋の管理を始めて無事に一年が過ぎ二年目の夏、大惨事が起きた。
(詳細は山こじ通信vol,50早川尾根〜鳳凰三山、桂木優著「41人の嵐」)
まだ夏の始まりというより、梅雨が明けたばっかり、いよいよ夏山シーズン到来!と言う8月1日に1982年の台風10号が日本列島を静岡から上陸、南アルプス全体が大打撃を受け土砂崩れ林道崩壊が各地で起こり、自衛隊のヘリが出動して救助をするという大惨事に発展した。
著書「41人の嵐」の中で、土砂降りの雨で極寒の仙塩尾根を逃避行する際中、
やっと繋がったトランシーバーで北岳山荘と交信する同行の大学生から何か言うことはありませんか?と聞かれ
「両俣崩壊、小屋埋没!」
8月1日の両俣小屋
復旧なった両俣小屋
と言い放ちレシーバーのスイッチを切った、そうするしかなかった・・・、信じたくないがそれが現実に起きてしまった。
「北岳の神よ、間ノ神よ、両俣の神よ。
雨を降らせないでくれ、鉄砲水を止めてくれ。我々をいじめないでくれ。
北岳の神よ、間ノ岳の神よ、両俣の神よ・・・」
「41人の嵐」を両俣から帰宅して、次の日に読了したのだが、若き小屋番・星美知子さんの心の底からのうめきが切に感じる台詞だった。
北岳山荘に着いた25人
非難ルート 両俣(2000m)〜仙丈ケ岳(3033m)〜北沢峠(2000m)
てくてく・・・雨の林道を歩いている。
道の側の斜面にはしっかり、頑丈に造った筈であろう、土砂崩れ防止の石積やモルタル吹付の工事が施されてはいるが、場所によっては崩れ、見上げると植わっている木々も根こそぎ土砂とともに斜めになっているところも見受けられる。 見上げる斜面には日常茶飯事の小規模な土砂崩れがあり、幅員確保のため路肩に寄せられている瓦礫が谷側に壁の様に連なりになっている。
ここでは、毎日、毎回の雨ごとに大自然との闘いが繰り広げられている。
・・・?
堰@・・・樹木が地面毎斜め〜〜〜!!
SNSでよく見る「両俣まで43分17秒」の看板を見つけることが出来なかった。
なかなか洒落た台詞だと思ってお気に入りだったので、ちょっとがっかり。
雨の中の林道を歩き始めて2時間位が経ったころ、
「ようこそ両俣小屋へ小屋まであと1km 15min普通 (30分)遅い」
の看板があった。
遅いと言われるのも癪なので、最後を頑張って丁度15分で小屋に着いた。
小屋番を目指すほど山々を歩き廻り、自然に親しみを持ち、のめり込んでいった星さんの脚力から見ればやっと普通のレベル・・・。
静かに横を流れる野呂川の水面から50p位しか高くない岸辺の平地に小屋は建っていた。
玄関を開けると、昨夜泊まったお客さん二人と小屋のスタッフが星さんを囲んでお茶をしていた。時刻は9時をちょっと過ぎた頃・・・。
星さん 「今日は何処から?」
山こじ 「芦安から広河原に出て野呂川出合から直接です。」
星さん 「何処まで?」
山こじ 「ここまで・・・。」
星さん 「???」
山こじ 「ここが目的地です♪」
星さん 「あっら〜〜、嫌だぁ〜??」
小屋の中に笑い声が広がる。
お客さん「そうそう、こういう人多いわよ♪」
山こじ 「星さん、お土産です♪」
といって、ザックの中に陣取っていた、富乃宝山の一升瓶、韮崎駅前うさぎやの大福を取り出す。
星さん 「なんでぇ〜、これが好きなの知ってるの〜?」
山こじ 「ネットの情報では有名ですよ♪」
小屋のスタッフ 「これからは欲しいものがあったら、ネットで伝えた方がいいよ(笑)」
初めての訪問だが一気に座の仲間に入れた。さらにダメ押しとして、1984年岳人9月号の当時「41人の嵐」を出版したころの34歳の星さんの記事のコピーを見せると・・・。
星さん 「あっらっ〜〜、
いやぁ〜、誰これ〜〜(笑)」
残念なことに、この号の岳人(1984年9月447号)は小屋に来た誰かが持って行ってしまったらしい。
そんなやり取りで、会話が盛り上がっているところに、ゴソゴソと玄関前に人影が・・・。
?氏 「あの〜すみません。テントなんですが・・・。」
と玄関に映ったシルエットの時から、まさかとは思っていたが、・・・。
山こじ 「?・・・!!! おいっ俺だよ?」
玄関戸を開けて、顔を上げた彼は、
?氏 「ゲッ・・・ええぇ〜〜〜〜」
彼は信森さんと言って、今年のお盆山行き早川尾根縦走2泊3日(8月22日〜24日)の間行動を共にした、兵庫の二人組の人だった。 (もう一人の方は嶋田さんと分かった)
彼は昨夜、両俣小屋にテン泊して今朝早く熊ノ平を目指したのだが、大腿骨の関節に痛みが走り、大事を取って縦走を諦め両俣小屋に戻ってきたところだった。
もう少しでニアミスだったところ、偶然の再会が実現した。
夜叉神峠で別れる時に、「また何時か何処かの山で会いましょう♪」
と山で出会った人それぞれに言ってきた言葉だが、まさか現実に起こるとは・・・、世の中は狭いものだ。
これには小屋にいた人皆が驚いていた。
そんなこんなで楽しい時間が過ぎ、新たなお客さんを迎え、さらにいろいろな話で盛り上がって行った。
完全に炬燵に居座り、一人ウィスキーを飲みながら、小屋番みたいに応対して両俣の時間は過ぎていった。
5時30分夕食。 20時消灯。 4時朝食。
小屋の時間は決められていて、それに合わせて皆が動き、新しい明日へと押し流されて行く・・・。
・・・あれから34年。
皆の力で傾いた小屋をジャッキで持ち上げ、基礎を作り直し、少しづつ、一つ一つ仕事を積み重ねて、今の両俣小屋がある。
様々な人が両俣を訪れ、翌日には出発して行く。
・・・毎日・・・毎日同じことが繰り返されて、・・・34年。
昼過ぎには雨が止み、夜には素晴らしい星空。 翌朝は快晴。
星さんとスタッフの皆さんにお別れをし、再会を約す。
今日は最高の下山日和だ!
「41人の嵐」 桂木優著 ペンネームの由来は広河原ロッジに大きな桂の木があったから・・・
堰@僚亦楽が来帳 1983年7月7日〜 8冊 復旧から今日まで35年の歴史・・・
嵐の中25人が籠っていた2階
堰@ここまで土砂で埋まっていた(スタッフの牧野さん)
両俣の山の神
堰@土砂が押し寄せて平地の無い元のテン場
夕食
堰@朝食