2011.10,29~30
山こじ通信 vol.38 徳本峠~霞沢岳
島々谷にて・・・
行きたい山行コースのひとつ、その昔、上高地入りの本道であった島々谷から徳本峠を越える歴史の道を今回歩いてきました。
この道は釜トンネルの開通する以前、唯一の上高地への道として先輩岳人達が辿って行った道です。
山行き行程(2泊3日 2011.10.29~31) |
第一日目(予定歩行時間 8時間) 撮影+小休止 6時間45分 |
06:10・・・・・・・・・・・08:03・・・・・・・・・・・・・・・09:12・・・・・・・・・・・・・・・10:34・・・・・・・・・・・・・・13:06・・・・・・・・・・・・13:55 島々 (2:00) 二俣 (1:30) 中間ベンチ (1:30) 岩魚留小屋 (1:40) 力水 (1:20) 徳本峠 726m (1:53) (1:09) (1:22) 1260m (1:32) (0:49) 2135m |
第二日目(予定歩行時間 6時間55分) 撮影+小休止 6時間44分 |
06:49・・・・・・・・・・・・・・・・・・07:49・・・・・・・・・・・・・・・・・09:56・・・・・・・・・・・10:31・・・・・・・・・・・11:04・・・・・・・・・・・・・・・・・12:52・・・・・・・・・・・・・・・・・・13:33 徳本峠 (1:00) ジャンクションピーク (2:20) K1 (0:30) 霞沢岳 (0:30) K1 (2:00) ジャンクションピーク (0:40) 徳本峠 2135m (1:00) 2428m (2:07) (0:35) 2646m (0:33) (1:48) 2428m (0:41) 2135m |
第三日目(予定歩行時間 2時間30分) 撮影+小休止 2時間38分 |
09:00・・・・・・・・・・・・10:24・・・・・・・・・・・・・11:38 徳本峠 (1:35) 明神 (0:55) 上高地BT 2135m (1:24) 1530m (1:14) 1500m |
毎度の事ながら、仕事の都合でなかなか連休を取ることが出来ないので山に行けない。
しかし、今回は仕事にも家庭にも我が儘をさせてもらい、土、日、月という最強の日程で2泊3日の山旅の実現となった。
いろいろ行きたい山の候補はあるし、鉛筆登山で山行計画も出来上がっているのだが、10月末という晩秋、しかも初氷も過ぎた北アルプスでの登攀要素のある山(奥穂~西穂)は無理だし、仕事のストレス発散の意味もあって、呑気に歩け、心が癒される、趣のある古道を辿る事にした。
(山こじはナイーブなのです きっぱり!) ウソだぁ~~!
○アプローチ 自宅(01:00)~圏央道入間IC・中央道松本IC~R158 安曇支所P(04:30)
仕事を終え、自宅に即行で戻り、ザック等の積み込み、夕食、風呂を済ませ、先ずは仮眠だ。
出発は深夜の1:00予定だが、1時間前には目が覚め、結局仮眠時間は3時間しか摂れなかった。
自宅を01:00スタート。 深夜なので渋滞知らずで快調に飛ばす、ノンストップで松本ICに到着。 コンビニで朝食の分と昼食用のおにぎりを購入し、R158を安曇支所へ向かう。
安曇支所には04:30に到着。
安曇支所 徳本峠入り口
事前にTELで確認しておいたのだが、登山者が駐車場に車を停める事を黙認してくれているようだ。
(ただし、駐車中のトラブルなどの保障はできないし、マナーを守って欲しいとのことです。) 安曇支所は、バス停前で帰りも便利だし、綺麗なトイレと洗面所もあり最高でした。
○徳本峠入口(06:18)~二股(08:03) 6.3㌔ 1:45
支所を出て、島々川に向かうと「徳本峠入口」の看板があった。 ここから峠までは16㎞もの長い谷道歩きだ。(06:23)
杣人をはじめ、ウェストンやガウランド、田部重治氏や先輩岳人も辿った径なのだ。
島々川はいくつもダムがあり、その工事の為に二俣までは作業車の通れる林道になっている。 写真を撮りながら歩いていると「名古屋から来た男性二人組」と前後して歩くようになった。
路肩が広い場所があり、インターネットでよく見る、このコースを歩く人が車を停めるている場所だなと思った。 そこには簡単なゲートがあった。 さらに先には本気で車止めにするゲートがあった。
路肩の広い場所 奥に簡単なゲート 島々第3号砂防ダム
本気のゲート 二俣
戦国落人悲話 歌碑
既に見頃を過ぎてしまった紅葉を眺めながらひたすら歩く。 ようやく二俣だ。(08:03) ここで島々川は北沢と南沢とに分岐する。 徳本峠へは南沢を更に6時間程の行程だ。
ここには歌碑がある。 釈迢空(折口信夫)が大正15年10月、この道から一人上高地入りをした際に「秀綱奥方の遺跡」の標識を見て追悼歌を詠んだ。
“ をとめ子の心さびしも清き瀬に
身はながれつつ人恋にけむ ”
○二股(07:56)~中間ベンチ(09:12)~岩魚留小屋(10:34) 5.2㌔ 2:31
二俣には休憩するベンチやトイレが整備され登山者の便宜をはかっている。
トイレは嬉しい設備だ 休憩出来る広場
ここから、やっと島々谷らしくなってきた。二俣のダムを高巻きして山道を行くと、程なく「秀綱奥方の遺跡」に着く。(08:09)
先ほどの歌碑もこの地で亡くなった三木秀綱の奥方の難を詠ったものだ。
秀綱奥方の遺跡
・天正13年(1585)8月、飛騨の国、松倉城は豊臣秀吉の越中佐々成政攻めの一支隊、金森長近の軍勢に攻められて落城、城主三木秀綱は遁れて信州に落ちる途中、奈川村角ヶ平で、別路をとった奥方は徳本峠を下った島々谷で、ともに郷民の手にかかり非業の死を遂げた。 |
二俣から2.6㌔、岩魚留小屋にも2.6㌔・・・まだまだ先は長い。(09:12)
中間ベンチ どっちにも2.6㌔
やはり2006年の台風の影響は大きかったみたいだ。 谷沿いの崖に無理して付けられた道は自然の猛威には勝てず壊されてしまった。 島々谷のコースが2年程通行出来なかったのが納得できる。橋が新しくなっているのも増水で流された後復旧されたものだろう。 大変な苦労を掛けて修繕した道を歩かせてもらっているのだ。(感謝)
行き橋 戻り橋
瀬戸下橋 瀬戸上橋
苔むした古い桟道
行き橋(新)、戻り橋、瀬戸下橋、瀬戸上橋、岩魚留橋(新)の他、丸太橋、「一人づつ渡ってください」と注意書きがあるほどの壊れそうな苔生した桟道・・・。
それもこれも趣のあるこの静かな道を護る為だ。
やがて川の近くを歩くようになって来たなと思った頃、岩魚留小屋が見えてきた。(10:34)
岩魚留橋 岩魚留小屋(指が・・・)
岩魚留小屋は明治44年(1911)開業で、昔から休み茶屋としてはあったらしい。
小屋は夏季を除いて営業しておらず、小屋の中に人の気配は無かった。
さっそく縁側に陣取ってザックを下した。誰もいないと思ったら、先客が一人いた。
彼の大きなザックはテン泊装備だそうだ。暗いうちに島々を出発して、ここで1時間ほど昼寝をしていたそうだ。山こじと入れ替わりに彼はスタートしていった。
誰もいない晩秋の山奥・・・沢音の聞こえる小屋の縁側で大休止・・・。 思えば家を出てからというもの、休憩無しの運転と山歩きだった。
昼食はストーブを出してラーメンを作りコンビニのおにぎりと一緒に食べ、のんびりとした時間を過ごした。
晩秋の空は高く、明るく、青かった・・・。
これならストレスも消えて無くなってくれるだろう・・・。
んがっ!しかし、一人でまったりしている時間はあっけなく破られ、「名古屋から来た男性二人組」、次にヤマレコのonsenさんがお二人で到着。
さっきまでの静寂が破られ賑やかになった。
いろいろ山談義をしたりして、それはそれで楽しいひと時だったが30分後には皆出発していった。
山こじは寝不足の疲れが出たのか、尻に根が生えたように立ち上がるのが億劫になってしまって皆を見送くる側になっていた。
その後女性二人組が到着。ザックを整理していると今度は声のでかい爺さん(初老のハイカー)が、若者二人を連れて到着。
彼らのガサツな大声に辟易して尻から生えていた根っこがやっと千切れたみたいで出発できた。(別の意味で感謝?!)
ここからは沢を飛び石で横断したり、橋があっても苔生してふやけた半分壊れた丸太橋だったりで、昔の谷道(沢道)のままだ。
勾配もきつくなり、大岩もゴロゴロしている。 これでは岩魚も上れない訳だ。
晩秋なのに、暑くてたまらずシャツ1枚になり、汗を滴らせながら登る。 時々渡渉を強いられるが、その際に沢の水で顔を洗えるので冷たくて気持ちが良い。
今回ものんびり山歩きどころか、いつもの「ガッツ登山」の様相になってきた。
道を右岸に取り急勾配の道を息を切らしながら登っていると、前方に人影が・・・。
本谷の渡り 力水
本谷の渡りを通過している所だった。 いよいよここから登山道は90°方向を変え左岸に渡り、峠沢の九十九折の始まりから、一気に勾配がきつくなる。
すぐそばで「名古屋から来た男性二人組」が汗だくになって休憩していた。 彼らを追い越して二折ほど登ると「力水」だ。(13:06)
ちょっと水の勢いがしょぼいが冷たい水を一口すくって飲む。冷たいっ!うまいっ♪
もうすぐ峠・・・ 汗だくで到着!
果てしなく九十九折は続いていて、青空に向かって登っているようだ。 つらいっ!
二折ほど上に登山者の気配・・・。 よしっ追い付くぞっ!
萎えていた気持ちに再びガッツの火が蘇る! しかし、・・・届かなかった。
こちらも休み無しで、頑張るが先行者も休まない! お互いの頑張りに応えて、あんなに遠いと思われた峠の頂上が残り2~3折になってしまい、既に到着した人の会話が聞こえるようになってきた。
ガッツ登山で息を切らしての到着は気恥ずかしいので、息を整え登り着いた時の感動を味わうために、足元だけを見て峠に到着。(13:55)
深夜の出発、長距離のドライブ、早朝からの登高・・・。 それもこれも、この瞬間の為・・・。
筋肉の負荷の感触から勾配が無くなったのが分かる、峠に着いたのだ。 視線を正面に向けるべく顔を上げる。 今、ガウランドやウェストンのように穂高と真正面から対峙する。
ガ~ン!! これぞJapanese Alps。
言い得て妙である。(納得!)
○峠の小屋
小屋閉め間近の徳本峠小屋 支配人が雪囲いの作業中
徳本峠小屋は2010年8月に旧小屋の名残を残しつつも、増改築を施し、北アルプスの現在のニーズに対応した、明るく清潔な小屋に変貌した。
(旧小屋ファンの方には残念!)
要予約制を摂り宿泊客を詰め込む営利優先の経営方針を捨て、良い思い出を残せる、「泊まって良かった」「また泊まりたい」と思わせる小屋にしたかった。
(支配人 岩本さん談)
受付を済ませ、布団スペースを割り当ててもらい、自分の場所にザックを下すと、隣は後から到着した「名古屋から来た男性二人組」で、一段上の向かいにはonsenさんが先着していた。
力水からの九十九折ですぐ近くを歩いているのを見かけて、目標にして頑張ったが追い付く事が出来なかった事など、さまざまな山談義で盛り上がり、両隣の人とは夕食前からビールとウィスキーで宴会が始まった。 夕食は全員が一度にテーブルに着き、今度は同席の人と日本酒で山談義、彼は霞沢を遡行して霞沢岳から来た猛者だった。
本日の宿泊人数は20名以上で、小屋閉め前にしては多かった。 布団は一人一枚の羽根布団で快適、快眠だった。
旧館 1階物置 2階布団置き 旧館3階 宿泊スペース
新館 食堂 奥は厨房 新館 食堂
新館2階 宿泊スペース 今回は一人が布団一枚確保♪
夜半から降り出した雨は朝方には止み、辺りが明るくなった頃、戸外に出てみると、穂高の2800m位から上は白く化粧をしていた。 しかし、雲が邪魔して良い写真にはならなかった。
早い人は表が暗いうちから出発して行ったが、山こじは、「今日はピストン」と決めていたのでゆっくりと朝食を摂り、下山する人達と同じように再び降り出した雨の中を出発。
サブザックの中身はピストンなのでに水と弁当だけ、軽装でとっても楽だ♪
スタート時点では着ていた雨具も不要になり、ジャンクションピークの手前で脱いだ。九十九折の途中で先行していた「名古屋から来た男性二人組」に追い付き、しばし会話。
今日は帰る日なので無理をしたくないが、せめてジャンクションピークまでは登ろうと考えているらしい。
霞沢岳まで頑張ると上高地には夕方になってしまい、帰宅は渋滞を考えると深夜になってしまう。 翌朝からの仕事を考えると賢明な、しかし残念な山行である。
我々は仕事が本業なのだから致し方ないことだ
九十九折を登り詰めるとジャンクションピークだ。 東側が開けている展望のよい所で、遠く八ヶ岳や富士山、乗鞍岳や御嶽山が見える。
朝は雨具まで着込む ジャンクションピーク すでに汗だく
八ヶ岳 御嶽山と乗鞍岳
さらに樹林帯を進み、最低鞍部にあたる小さな池塘のある場所に着く。ここが峠と霞沢岳の中間地点らしい。予想以上にタフなコースだ。
(失礼ながら霞沢岳は北アルプスの盲腸的な存在で、お手軽登山コースだと思っていた。)
P2 P3
P4 K1
道は再び登りに変わり、樹林帯が続く。 P2、P3、P4、P5と立木にマーキングしてあるのを数えながら先を急ぎ、やっと視界が開けた。 そこからはK1からK2、霞沢岳と三峰が揃って姿を現した。
左から霞沢岳頂上、K2、K1 三峰の揃い踏み!
ここまで来るのに小雨の中とは言え、汗だくになってしまった。 結局、二日目も「ガッツ登山」になってしまった。
しだいに雨が強くなり、休憩場所を探していると、登山道整備のための丸太材の置場があった。
ここで初めて足を停め、水を二口ほど飲んで雨具を着込む。 後にも先にもこの一回の小休止だけで霞沢岳をピストンした。
いよいよK1への最後の直登、とその時前方からonsenさんがお二人で降りてきた。もう頂上まで行かれたのかと思ったら、K1までは行ってはみたが、アップダウンは激しく、下りの路面の状態が滑りやすく、雨も降り出したので、今回は頂上を見送りするとの事だ。 K1から頂上まではあと30分の行程だが、往復すれば1時間のロス、今日中の下山帰宅を考え、さらに雨も考慮するとなると賢明かもしれない。
(登山は各々の危機管理能力、危険予知で行動を決定する道楽である。勇気ある判断だと思います。)
ゼイゼイと息を切らし、K1に到着。 ここからは枝尾根の六百山や下界の帝国ホテルの赤屋根が遠望出来る。 そして行く手にはK2と霞沢岳が間近に迫る。
六百山 後ろは岳沢
手前の赤屋根は帝国ホテル 左霞沢岳 右K2
K1から足場の悪い下り、そしてさらに急登してK2に到着。さらに近くなった頂上目指し、再び下り今度は緩やかに巻くようにして霞沢岳に到着。
K2より霞沢岳頂上 頂上にて
頂上より焼岳 噴煙が上がっている
頂上の展望は雨が酷くなってきたので良くなかった。 じっとしていると寒くなってくるので、写真だけで撮って早々に退散。 振り返るとK2に登山者の姿があった。
今日初めての後続の人に会えた。 悪天で小屋の人は誰も霞沢岳に向かわず、上高地に降りてしまったので、今日は頂上に向かったのは一人だけだと思っていた。
頂上とK2の間ですれ違ったのだが、若い女性の単独行者であった。 近頃の女性は強い! 今日の登頂者は山こじと彼女の二人だけだった。
ひたすら歩を進め、K1 の下りから樹林帯に入り、最低鞍部の付近で峠に向かう中年の登山者に追い付く。
最低鞍部にある池塘
彼は日帰り登山で、今朝上高地を発ち、峠に寄らず霞沢を目指したが、時間切れとなり、K1、K2、霞沢の三峰の揃い踏みを見ることのできる地点でピストンとなった。
その彼を追い越し、ズンズン歩を進め、休憩無しで霞沢岳ピストンをやり遂げた。
峠の小屋に着いた時には、手が寒さの為に悴んでしまっていて、連泊の手続きの宿帳に記名することが出来なかった。
まだ午後の2時頃なのに、小屋の中ではストーブの前で暖を取っている。雨の2135mの峠は雪にこそならなかったものの、とっても寒い!
小屋の中では3人のうら若き山ガール達(その中の一人はばっちりストライクゾーン)が雨の中を日帰りハイクで峠まで登ってきていた。
彼女らは地元松本市の人達で、山こじの近辺でいうと、奥多摩・奥武蔵の感覚で上高地に来られるらしい。(うらやましい)
他には男性二人が小屋閉めや設備の補強補修で住み込みで作業に来ていた。 山での仕事は土木、大工、左官、電気etcと何でも出来なければならない。
夕食は、一般客は山こじ一人なので、小屋のスタッフ達全員との小屋閉め大宴会となった。 半年間の慰労会である。
楽しい酒を酌み交わし、支配人とは鎌倉街道の話・・・、小屋閉めのスタッフとは工事の話・・・。 話が進むに従い、小屋に住み込み絵を描いているK先生は同じ市内の方だったり、調理の女性は隣町の人で山こじが毎週行く「スーパーいなげや」が同じだったり等々、広いようで狭い世間を感じた峠での出会いだった。
ちょっと雪化粧した前穂、奥穂
峠の最後の朝は、飲み過ぎの二日酔いで明けた。 昨日までの雨も上がり、素晴らしい晴天のもと、穂高もその雄姿を魅せていた。
小屋は今年の営業を終わり、後何日かで小屋閉め作業を行い、じっと静かに5mの雪の下で来春を待つ・・・。
調理の女性も山こじの2時間後には下山するそうだ。 皆が山を下りて里へ下りてくる。
下界はまだまだ秋真っ盛り、関東地方の紅葉はまだまだこれからなのに北アルプスの山々は冬を迎える・・・・・。
峠からは昔道の面影を味わいながら、明神へと下り、穂高神社を見て、BTに向かう。
朝の峠の小屋 峠道
最後の水場 林道になる
明神橋から仰ぎ見る明神岳
穂高神社 奥宮
梓川から徳本峠(中央の窪み)
路線バスで安曇支所に戻り、愛車に無事帰還。 帰りの中央道は工事の車線規制はあるものの、平日なのでノンストップの渋滞知らずで自宅には16:30に到着。 上高地から4時間30分だった。
○実験
今回は小屋泊用にパイネの40ℓのザックを新調している。
剱岳北方稜線、北鎌尾根の時などに使用する予定で購入したのだが、新アイデアのシステムはあまり好ましい結果ではなかった。
新システムとは、ザックのショルダーベルトの下部の取り付け方を2通りに変えられるようになっていて、腋の下の血流を妨げないように、ウェストベルトに少し引っかけて、背負った時のベルトの締め付けを緩和させるというものだが、ザックの重みで下に沈むとウェストベルトを引き上げてしまい、ウェストベルトが骨盤の適正位置から上に引っ張られてしまうという結果になってしまった。 荷物が軽いのならこの様なことにはならないのかも知れないが、荷物が軽ければ腋の下を締め付ける事もない筈なので、期待外れの新機構だった。
○上高地
現在の上高地という呼び名は小島烏水が古文書、旧記録にそれを探したが、『信濃地名考』には安曇野はあっても上高地は無く、やっとのこと見つけたのは天保14年に出た『善光寺道名所図絵』に安曇郡穂高の人、高島章貞が文政元年(1724)に上高地に遊んだ漢文体の記事があり、それに神河内と書かれ「かんこうち」と振り仮名が付けられている事を知った。
これによって『上高地は神河内の方が正しき説』・・・。
当て字では「上高地」「神高地」「神河内」「神合地」「神降地」「神垣内」「上河内」ざっとこれくらいある。
いずれも「カミコウチ」という発音に合わせて選んだ文字である。
「徳本」とかいて「トクゴ」と呼ばせる。
トクゴと呼ばせるのなら「徳吾」または「徳郷」ではないか。もともとトクゴという地名は峠の上のものではなかった。
昔の上高地には12ヶ所の常設杣小屋があった。(川下から田代・湯川・越後川・宮川・徳吾・古池・横尾・ワサビ野・ワサビ沢・熊倉沢・一の俣・二の俣)
それらは皆上高地の平らの中に建てられていた。 その中に徳吾があるように、これは峠を下って平らに下り着いた所の地名であった。
当時今言う徳本峠は、ただ峠と言うだけでトクゴは付けなかった。昔の絵図にも峠の上に徳吾と書いたものは一つもない。
しかし峠や街道の命名の定法として、どこを見てもその道の、また峠の名は、目指す先方の村や町、または国の名をとっている。
近くにある野麦峠や中尾峠も野麦村や中尾村へ行く峠だからである。
明治28 ,9 年の測量の5万分の1地図に峠を徳吾に行く手前の山という認識だったが「徳本峠」と表記され地元では不審に思った。
誰が何と付けようが、またお上がしたことであっても、あれは徳吾へ下る峠だから付けるなら徳吾である。 という無言の抵抗に折れて、のちにこれにトクゴと振り仮名をつけるようになった。
○島々谷道
上高地は世に知られるには遅かった山である。 といっても人の入り込まない山というのではなく、松本領分御立テ山として早い時代から土地の者の木材伐りだしは続いて来たし、信州と表日本を結ぶ街道として人や荷物の往来があったが、わずかな期間で廃絶し諸木伐りだしも明治維新以降自然と廃れた。
“私達は5時には海抜七千百尺の徳本峠の頂上に達した。この峠は北方の鍋冠山と南方の霞沢山の間を横切っているのである。
この峠の最高地点近くからの展望は、日本で一番雄大な眺望の一つで円形の輪郭や緑に包まれた斜面のある普通の山景とは全くその性質を異にしている。・・・”
明治24年8月横浜在住の英国人宣教師ウォルター・ウェストンは杣道として開かれはしたが「人通りも少なく消えかけている羊腸とした道を上って行くのは非常に困難だった」と彼の紀行『日本アルプス登山と探検』で表現している。
しかし島々の集落から北へ島々谷川沿い徳本峠越えの道、永い歴史を持つ上高地入りの本道をウェストンよりも13年早く明治11年に大阪造幣局の雇外人技師ガウランドが登った。
飛騨山脈を初めて「日本アルプス(Japanese Alps)」と名付けた人である。
※参考資料
信州の旅社発行「上高地物語」昭和56年10月初版発行