2016.10.8〜12
山こじ通信 vol.48
針ノ木古道訪問
秋色の針ノ木谷
山行行程 (3泊4日) 2016.10. 8〜11 |
第一日目 予定歩行時間 15分??? |
・ ・・06:30・・・・・・・08:00・・・・・・・09:53 ・・扇沢・・・・・・室堂・・・・みくりが池温泉(泊) ・・1420m・・・・・・2450m・・・・・・・・2410m ・ |
第二日目 予定歩行時間 3時間30分 (撮影+小休止 4時間15分) |
・ ・・・・・08:44・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10:00・・・・・・・・・・・・・・・・・・14:15 ・みくりが池温泉・・・・・室堂・・・・・・・黒部ダム・・・(3:30)・・・平乃小屋(泊) ・・・・2410m・・・・・・・・・2450m・・・・・・・1410m・・・・・・・・(4:15)・・・・・・1410m ・ |
第三日目 予定歩行時間 7時間50分 (撮影+小休止 5時間25分) |
・ ・・10:00・・・・・10:20・・・・・・・・・・・・・・10:59・・・・・・・・・・・・・・・13:19・・・・・・・・・・・・・・14:36・・・・・・・・・・・・・ ・平乃小屋ー渡し場・・(1:10)・・南沢出合・・(3:40)・・船窪出合・・(1:30)・・船窪乗越・・(1:30)・・ ・・1410m・・・・・・・・・・・・・(0:39)・・・・・・・・・・・・(2:20)・・・・・・・・・・・・・(1:17)・・・・・・・・・・・・・(1:09)・・ ・ ・・・・・15:45 ・・船窪小屋(泊) ・・・・・2450m ・ |
第四日目 予定歩行時間 3時間30分 (撮影+小休止 2時間49分) |
・ ・・07:10・・・・・・・・・・・・・・・・・・09:59 ・船窪小屋・・・(3:30)・・七倉山荘(泊) ・・2450m・・・・・・(2:49)・・・1100m ・ |
また、ドジをこいてしまった。しかも今回は致命的な失敗だ。
出発前の10月2日の日曜日に植木の伐採中約2mの所から墜落!!
木の股部分にかけた右足が、昔切り取った小枝の枯れた出っ張りに乗り、それを踏み崩してしまい、右足は宙に・・・。
バランスを崩して落下するときに左足が体とは逆のフェンスの向こうに行き、膝が引っ掛かり、体が反転!
肩と右ひじが最初に舗装の地面にぶつかり、僅か遅れて右後頭部から落ちてしまった・・・。
最初に青い空が見え・・・、次第に暗くなり・・・、意識が朦朧と・・・・・・。
「大丈夫? 大丈夫?」 慌てふためく新妻ちゃんの声を聴きながら・・・・・・。
・・・・・5秒・・・・・10秒・・・目をパチクリ! 青い空がまだ見えている・・・。
「えっ、これって大丈夫かも?」
ゆっくり起き上がり、座り込んでしばらくじっとしていると、隣のおばさんも騒ぎを聞きつけてか、一部始終を見ていたのか出てきて心配してくれている。
たぶん、意識が高揚してハイ状態なのだろう、強がってこの後も伐採を続けてしまった。
作業後、ひと風呂浴びて昼寝をして起き上がってみたら、体中が痛い!
夕食の後風呂に入って、早めに寝付いたのだが、翌朝起きてみると歩けない!!壁伝いにソロソロと歩くのがやっと。
新妻ちゃん「そんな体で仕事に行くの?」
山こじ 「行く!」
新妻ちゃん「これじゃあ、山は無理ね!」
山こじ 「行くったら行くっ!!」
LEKIのT型ストックを使って、そろりそろりと玄関を後に車に乗り込む。
今日(月曜日)から金曜日までに仕事を片付けないと、山に行けない!
・・・の執念だけが、今の自分を支えていた。
ボロボロの体だったが、天候も応援してくれ、晴天続きだったので予定通り金曜日まで勤め上げ、いざ山へ!
体調は墜落の影響のギックリ腰が治らず、長歩きはキツイ状態だが、「山に行くっ!」と言ったら行くのだ!!
10月8日(土曜日)
当初は立山周遊・室堂散策の予定だったが・・・・・
天気予報は芳しくないが、とりあえず中央高速を扇沢へと走る。(22:00)
SAなどに寄ったりしながら、02:30頃には扇沢駅前の有料駐車場へ到着。
早速仮眠を決め込むが、周囲の騒がしさに05:00には起きて準備を始め、06:20には駅へ。
気の急いている登山者は皆切符を買ってしまったらしく窓口に行列は無い。切符を手に階段を上って行くと・・・。
すでに2階では皆さん行儀よく整列していて、扇沢名物の駅員さんの話に笑いがこぼれていた。
行列の最後部に並び今日の始発の06:30の関電トロリーバスに乗り、いよいよ秋の山旅のスタートだ。
信州側からは、関電トロリーバス〜黒部ケーブルカー〜立山ロープウェイ〜立山トンネルトロリーバスと日本一料金の高い黒部アルペンルートを行く。
料金は扇沢〜室堂間片道5860円である。
・・・・・・、着いた・・・。
08:00頃には室堂に到着していたのだが、外は雨!景色も無し。
立山の姿どころか、周り中真っ白で視界30m位の雨雲の真っ只中にある。
写真係のお姉さんも今日ばかりは商売にならない
分かってはいた事だが、・・・どうしようか?
これでは立山を登っても景色も何も見えず、いたずらに濡れるだけなので、一日目の室堂散策は迷わず中止に決定!
それにしても時間が早すぎる。今晩の宿のみくりが池温泉にTELすると、
「お部屋の案内は昼過ぎですけど、お風呂には9時ころから大丈夫ですよ?」
ラッキー?? 何と嬉しい返事だ(^^♪
それでも合羽を濡らしたくないので室堂バスターミナルの中を見学し時間を過ごし、雨の止み間を狙って、道迷いもなく本日の歩行時間10分で、10:00頃宿に到着。
佐伯有頼 雄山神社峰本社旧殿
佐伯有頼 白鷹と熊に導かれ、この地で阿弥陀如来と不動明王から立山開山の御神託を受けたとされる
雄山神社峰本社旧殿 伊邪那岐尊(阿弥陀如来)と天手力尊(不動明王)の二つの神が祀られている
痛めた腰の為にも温泉が一番! 湯上り後は食堂で漫画を読みながら時間をつぶす。
ここで出会ったのが東京から劔岳登山に来たツルタさん、彼は前日剣沢キャンプ場でテン泊したのだが、雨と強風(ポールが曲がるほど)で登山を諦め、このまま帰るのはもったいない。
せめてみくりが池温泉で1泊してから帰るべく、ここに来たとか。湯上りとは言え残念な顔で話していた。
みくりが池温泉は就寝スペースも一人一枚の布団で快適で、食事も豪華な宿だった。
期待していなかったが豪華な食事♪ 一人のスペースは最高(^^♪
先ずはイシカワさんと乾杯!
その食堂で出会った横浜のイシカワさんと先ほどのツルタさんと3人が意気投合して楽しい食事となり、「じゃ喫茶室で飲みましょう」ということになった。
ひと休み後、喫茶室に行くとテーブルが空いておらず、外人さんカップルとの相席を身振り手振りで了解を終え一人待っていると、イシカワさんが来てくれた。
彼は躊躇せず外人さんカップルと会話を始め、彼らがカナダからハネムーンで来ていることなどを聞き出してくれ、ツルタさんも交え5人で楽しい会話が続いた。
イシカワさんが席を外した時にはツルタさんが英語で会話をしてくれて、二人の英会話の才能に置いてきぼりの自分が悔しかった。
イシカワさんは海外ホームステイなどの経験者で、ツルタさんは海外出張などの多い営業職だと言う。
ツルタさんの夢はセブンサミッツ(世界7大陸最高峰登頂)で現在2座をクリアしているという。
夢がでかいなぁ〜と感心して聞き入ってしまった。
カナダからハネムーンの二人 ツルタさん(右)イシカワさん(左)
10月9日(日曜日)
この夏も歩いた湖畔の道
朝起きてみると、雨! しかし午後からは回復してくる模様だ。
イシカワさんもツルタさんも下山して帰宅と決定したみたいだ。
今日は平乃小屋まで行かなければならないと思案していたが、景色も見えず雨の中を五色ヶ原経由のコースで歩いても嫌なので、軟弱なダムサイトの4時間コースに変更した。
発車時間待ちのバスターミナルで、イシカワさんと黒部ダムまで同行になり、別れ際に
「また何時か何処かで会いましょう♪」
山ヤらしく、さっぱりとした別れをした。
雨のスタート 残念ながら下山のイシカワさん
さて、黒部ダムに着いて一人に戻った山こじには、この夏も歩いた最悪の湖畔沿いの4時間コースが待っていた。
今日は渡船時間も関係のない、呑気な歩きでいいのだが、紅葉にも早いこのコースは退屈だ。
紅葉には早かった湖畔の道 凄い根っこのトンネル
次第に回復していく天候とは関係なく、一向に回復しない痛めた腰を労わるゆっくりとした歩きで平乃小屋に到着。(14:15)
夏に来た時とは違い、秋の小屋周辺には人影もなく静かだ。
夏とは違い静かな佇まいの平乃小屋 「ヒメマス」 6畳間に一人
とっても綺麗な室内 みくりが池温泉のお弁当♪
奥さんに宿泊の手続きをしてもらい「ヒメマス」の部屋に案内される。今日は6畳間に一人と贅沢な部屋割りだ。
この日の宿泊はもう一人のナカソネさんとの2人だけだった。
部屋でみくりが池温泉で作ってもらった弁当を食べひと休みを決め込む。
長い時間をもてあそび、雑誌などを食堂で読んでいると、常連のお客さんのナカソネさんが五色ヶ原経由のルートで到着。彼も前夜は室堂だったらしい。
そして最終17:00の渡船業務を終えた平乃小屋の御主人佐伯覚憲さんが戻ってきた。
二人が楽しく飲んでいるので山こじも食事前からの参戦となった。
夕食をつまみに飲み、釣りの話で飲み、山の話を語らい。やがてビールが日本酒になり、1合、2合、3合・・・わからなくなってきた。
1升までは飲んでいないが、深夜の2時半を回っていたので、時間切れ終了ということにして、明日の渡船は10時の便ということで決着。
平乃小屋の御主人佐伯覚憲(さとのり)さんは「平の大将」と船窪のお父さんが呼んでいたが、お酒で仲良くなった山こじに「覚(さと)さんとで呼んで(^^♪」と言ってくれた。
実は彼は昭和40年生まれで山こじよりも6歳も若い。職業イワナ釣り師の家系の三代目である。
平乃小屋は黒部ダム完成以降、渡船業務を6月の20日から10月の末までの「4ヶ月と10日、一日4〜5往復」を休まずに行っている。
山こじは2013年(vol.41奥黒部訪問)に初めて平の渡しに乗ったのだが、その時操船をしていたのは確か天狗平山荘の佐伯賢輔さんだったと言うと、覚さんは
「その時はアバラ骨を折って入院中だった」との事。
昔、お父さんの覚秀さんが小屋の近くでテントを張っていた矢口高雄氏に声をかけ
「そんな所でキャンプしているのならウチに来い」
と声を掛け矢口氏が2週間ほど居候していたらしい。
その時の経験がヒントになったのか、1973年から10年間も続く代表作「釣りキチ三平」が誕生する。
主人公の三平三平(みひらさんぺい)は11歳の少年(時によって9〜15歳の設定)だ。 覚さんの8歳の時の作品だ。
矢口高雄氏自身がモデルの三平だとも言われるが、覚さん本人が「三平のモデルは私です♪」公言している。
ちなみに三平の父の名前は三平 平(みひらたいら)ということである。
平の渡し(つり橋時代)黒部ダムの工事で沈む
一つ前の平乃小屋 湖底に沈んだ平乃小屋
湖底に沈んだ平乃小屋 平乃小屋の夕食
覚さん、ナカソネさん、山こじ 何時まで飲むんじゃ
10月10日(月曜日)
遂に針ノ木谷を歩く時が来た♪
ベランダから差し込む日差しで目が覚める。
一瞬、ここは何処?と今置かれている環境が夢の様に感じつつも、二日酔いの頭は現実に引き戻されて憂鬱になる。
今日は人跡乏しい針ノ木谷を歩くというのに、二日酔いとは・・・。
隣のニジマスの部屋では、まだナカソネさんが寝ている。
酒の抜けの早い(?)覚さんは6時の渡船業務を無事に務めたのだろうか?
時刻は8時30分、山の朝?と言うよりも昼、通常ならば一行程を終えている時間だ。
やっと起きてきた二人の飲んべぇ登山者に、奥さんが朝食の世話をしてくれる。まるで自宅にいるような雰囲気だ。
「落ち着くなぁ〜」
外に出てみると、刈安峠側から船で来た3人の作業員達と覚さんが楽し気に話している。
10月末の小屋締めまでもう少し日があるのだが、今日は浄化槽の汲出しで、ヘリコプターが12〜13回往復するのだとか。
朝の気温は3度だったらしい ヘリコプター接近!
覚さん船長♪ 最高の天気♪
やがて10時の渡船の時間になり、覚さんは船長となり平の大将の(^◇^)に戻る。
真向いの針ノ木谷で出会う人はいるのだろうか?
10分後に対岸に到着。 この時刻には乗船客はいなかった。
すぐに針ノ木谷を目指しナカソネさんの後ろを歩き始める。二日酔いの歩き始めだが、何とか体調も良好だ。
最初で最後の橋の所から、お互いのペースを考慮して、先を歩かせて貰う。
二人とも単独行なので、先行も後続もお互いを気兼ねしない距離、200〜300m位離れて歩くのがマナーだ。
追い抜く必要もなければ、追い越される心配もない、実にマイペースな山旅だ。
さすがナカソネさん! わかってるぅ♪
避難小屋 避難小屋内部
遂に来ました針ノ木谷♪
最初で最後の橋 針ノ木古道高巻道入口
ワクワク♪ 南沢出合渡渉地点 この先10回位か?
ガラ沢を抜けると広い河原に出て岸壁がお迎え「悪絶嶮絶天下無比」
針ノ木谷は全般的に踏み跡がしっかり付いていて、テープやペンキマークがあるので迷うことは少なく、快適に歩ける。
もちろん一般登山道ではないので、それなりにルートは見極めて通過して欲しい。
渡渉は自己判断で飛び石伝いでも、開き直ってバシャバシャとでも選択自由(^^♪
藪漕ぎ必至の昔のルートを船窪小屋のお父さんをはじめ、「道しるべの会」の皆さんがシーズン前はもちろん、シーズン中も定期的に維持管理されている賜物だと感謝しながら歩かなければいけない。
ここで「針ノ木古道」とは?
古くは忍びの抜け道、越中から信州へと国抜けの逃亡や信州から立山登拝する為の経費節減の道だった。
佐々成正の頃は越中から信州への抜け道として杣人や猟師たちが間道として使っていた道である。
天正12年(1584)の厳冬期に有名な佐良佐良越えをして浜松の徳川家康のもとまで行ったことは壮挙と言っても良い。
その後加賀藩の領地になると藩の大事な資源(山林・動植物・鉱石)を信州の杣達からの盗伐などから守るため奥山廻りなどで使われた。
明治維新後、奥山廻りなどの制度の必要がなくなり、越中から信州への最短輸送路として脚光を浴びる。
もと加賀藩士の佐久間盛武らと、信州の大庄屋飯島善右衛門らとが提携して、筑摩・新川両県の許可を受け、明治8年に開通社を結成した。
この山道を道幅9尺(約2.7m)に切り広げ、道程22里18丁(約90q)、要所要所には小屋を建て、牛小屋を置き、川には橋を架け、荷牛の通れる「スーパー山道」を作り上げ、明治11年の夏に完成した。
越中から塩や塩魚、薬などの物資を運んだ。糸魚川から信州に通じる塩の道と同じ役割を果たした。
開通社の本社は金沢と信州野口の2ヶ所に置き、出張所は富山旅籠町の島権次郎方に設置した。
その収益で道の維持管理を目指した日本初の山岳有料道路である。
料金は立山温泉で徴収したと言われるが、黒部川渡河地点の平ノ小屋が道銭小屋と呼ばれていた事から、ここでも徴収していたかもしれない。
この困難な事業をやり遂げたことが明治天皇の上聞に達し、明治11年特別に御嘉賞をいただいた。
しかしこの道は冬季の崩壊破損が激しく、その修理が容易でなく、収支相償わず、明治15年に廃道願いを出して開通社も解散し、大きな山の夢はわずか数年で消えてしまった。
この道を「信越連帯新道」、略して信越新道、立山新道、針ノ木新道とも呼ばれた。
この道を歩いた人
明治11年、アーネスト・サトウ(英国の領事館の書記官のちに公使)
明治12年7月、アトキンソン(開成学校、のちの東京大学の前身の応用化学の教師)
明治6〜10年、ガウランド、デュラン
年代は不詳だが東京帝大教授をしていたチェムバレンもこの道を踏破したらしく、
針ノ木峠を「悪絶嶮絶、天下無比」と驚嘆した。
彼は日本文化研究家で『古事記』を初めて英訳した人である。
明治26年、ウォルター・ウェストン(英国山岳会で教会牧師)
大正3年、前回とは逆コースでウェストンが歩いた時には信越新道の踏み跡の名残すら残っていなかったという。
明治28年、登山家木暮理太郎は針ノ木越えをして、
「ここばかりは一人旅に慣れた自分も、
初めて山といふものの恐ろしさを感じて、心細さに耐えられなかった」
と懐述している。
昭和11年 お父さん長野県小谷村に生まれる。
昭和29年、現在のテント場に先代の福島宗市によって船窪小屋が建てられる。
昭和30年 小屋完成後の初めての冬、様子を見に行った時に雪崩に巻き込まれて宗市氏が亡くなる。
その後高校を卒業した18歳のお母さんが父親の遺志を継ぎ小屋に入る。
昭和30年 お父さん、関西電力黒四建設事務所に入社。
昭和32年 お父さん、大町山の会に入り、北アルプスに春夏秋冬と入山した。
女手で小屋を継いでいたお母さんは入会した大町山の会のメンバーの協力を得て船窪小屋を切り盛りしていた。
その中にお父さんがいて二人は運命の出逢いをしました♪
その当時お父さんは黒部ダム工事の設計課に勤めており、毎週土曜日の午前で仕事が終わると針ノ木谷を登って船窪小屋に行き、月曜日の朝4時に出発して御山谷の工事現場事務所に8時30分に間 に合うように通ったそうです。
昭和36年 お父さんとお母さん結婚。
昭和38年6月 着工から7年の歳月と総工費513億円、延べ1000万人を投入して黒部ダムが完成。
昭和49年 現在の場所に船窪小屋移築。
平成19年8月24日 お父さんとチロル山の会、道しるべの会の皆さんの御尽力で針ノ木古道復活!
復活させた「針ノ木古道」は、お父さんとお母さんの「青春のLOVEロード」だと思う。
そして復活させたのは、お父さんのお母さんへの愛に間違いない!
船窪出合 船窪出合
河原に出たり、渡渉を何度もしたり、やがて左岸側に船窪出合の目印を見つける。(13:19)
ここを登ると船窪乗越、さらに直進して左方向に上り詰めると針ノ木峠である。
取りつきは、いきなりの急登だが辛抱強く牛歩戦術で進む。 もうすぐ針ノ木谷からの脱出の安心感ともうすぐ船窪小屋だという気持ちが、疲れた体に新たな元気を湧き出させてくれる。
新しい倒木が一ヶ所あったが、快適な稜線の道を登り、船窪乗越に到着。(14:36)
船窪乗越 テント場分岐 初代の船窪小屋はここにあった
遂に再訪 船窪小屋♪ 到着してほっとする
今シーズン最後の夕食 お父さんから全員にビールが振舞われる
稜線を吹き抜ける風が冷たい! 一瞬で体が冷えてしまう。10分ほど小休止していると微かに熊鈴の音が聞こえる。
ナカソネさんも、そんなに離れずに後続しているのを確認できたので出発。
ここからは夏に歩いた道だからもう安心だ。 しかし稜線の道なので風に吹かれると一気に体が冷えてしまう。
しかし上着を羽織るのが面倒なので我慢してそのまま進む。やがてテント場への分岐。
今日は体調が悪いので、水汲みはパス! たぶん小屋締め前日なので、もう水は大丈夫だろう・・・と楽な方で考える。
やがて小屋が見え始めた。たった2度目なのに何故か懐かしい船窪小屋に到着。(15:45)
さすがに小屋締め準備で忙しそうで、さらに1年かけた密着取材の集大成でテレビ撮影中だった。
ドタバタしている中、到着の鐘を誰も鳴らしていないのに気が付いたカツノさんが、山こじの為に到着の鐘を鳴らしてくれた。
「カァ〜〜〜ン」
この日は通常のご飯が出来ないということで宿泊費をまけてくれたのだが、残念なことに体を冷やし過ぎたのか、食事がほぼ喉を通らなかった。
稜線の風は登りで汗を掻いた体にはきつ過ぎたのかもしれない。 お茶とみそ汁だけをおいしく頂く。
部屋はテレビクルーとボランティアの皆さんとでほぼ満員状態だったが、布団は一人一枚を確保してくれているので快適だった。
小屋では8月に烏帽子小屋で出会った、遭対協の矢口さんがテレビクルーのガイドとして来ていたので再会を喜びあった。
隣の布団には仕事が気象の専門家の奥山さんと出会い、登山経験の浅いという彼に今まで登った山のことなどを話して過ごした。
ちなみに小屋締めと取材が重なったので恒例のお茶会は無かった。
10月11日(火曜日)
船窪新道の下りコースタイム3:30の所、夏は2:41、今回2:49。 更新ならず
朝だ、寒い〜。昨日の標高1500mの平乃小屋でも朝の気温が3度だったというから、標高2450mの船窪小屋は1000m近く高いので約6度は低いはず、気温はマイナス3度位だろう。
奥山さんは自慢の一眼レフを手に30分近く外に出ていたが、予想通り「寒い寒い」と言いながら部屋に戻ってきた。
ナカソネさんはストックを平乃小屋に忘れたので、再び針ノ木谷を下って行くという。
ご苦労さんな事でんな。 こりゃ、また覚さんと飲み会必至だな。
よく飲み、よく歩いたナカソネさん 奥山さん
小屋締め準備の船窪小屋
最初の予定では船窪小屋から蓮華岳を通り、雪の無い針ノ木雪渓の夏道を下り扇沢に戻る予定だったが、・・・
誰かの「針ノ木雪渓の夏道はキツイよ」の一声で予定変更!
前回と同じ船窪新道を下ることにする。時間も半分で下りれるし、腰にも優しい♪
小屋締めの為に看板も鐘も囲炉裏の傍に安置されたので、スタッフの生声の鐘の音で見送られる。
「カァ〜〜ン」
素晴らしい雲海が広がり、遥か遠くの槍ヶ岳まで見渡せる最高の景色の中を下山する。
素晴らしい雲海
10/10 (07:11) 10/9 (07:30)
10/8 (07:43) 10/7 (07:53)
10/6 (08:07) 七倉の森
10/4 (08:42) 唐沢のぞき
10/3 (09:09) 10/2 (09:27)
登山口10/1 09:53) 七倉山荘 (09:59)
腰が痛いので、衝撃を与えるのを極力避けて歩くのだが、木の根などで滑ったりして、体を捻ったり、ボロボロになって下山してきた。
さあ、七倉山荘の温泉でさっぱり!したいところだが、下山を楽にした分、車の回収に扇沢に行かなければならない。
待機しているタクシーに飛び乗り、一路扇沢へ直行。
扇沢では、お土産の購入と生姜焼き定食の昼食を済ませ、再び七倉へ。
途中の道路の脇には猿が10匹ほど徘徊していた。車に慣れているのか、全然どかないので運転には注意が必要だ。
さあ、最後の一泊は温泉療養で、酷使した体を労わろう!
七倉山荘に到着したら、さっさと宿泊の手続きを終え、まずは温泉だ!
綺麗な内風呂 爽やかな外風呂
三日ぶりの温泉でさっぱりして休憩室のソファに向かうと、何とヘリで下山していたお父さんとお母さんがいるではないですか。
七倉山荘で小屋閉めを終え、下山してくる皆とお疲れさんの食事会をする為に先着していたのだ。
皆が来るまでの間、お父さんとお母さんに独占インタビューが出来た(^^♪
上では小屋閉めで忙しく話が出来なかったが、ここで独占インタビューが出来た(^^♪
テレビ取材や小屋締めのドタバタで会話できなかったので、ラッキーだった。
やがて、ひろみさんやしのぶさん、カツノさんや小屋閉めのスタッフの皆さんが無事に七倉山荘に到着。
テレビクルーと一緒に下山の矢口さんとも再会できた。
温泉の後の食事会の終わるまでソファで寛ぎ、やがて皆さんが散開することに。
小屋では見送ってもらったので、今度は自分が皆さんを見送る事ができた。
お父さんは現役のドライバーです じゃあねぇ〜♪ としのぶさん
お疲れ様の矢口さん
七倉山荘では何度も温泉に入り、腰の養生と足の疲労回復に努め、豪華な食事を同室の二人とビールを飲みながら楽しんだ。
何回も温泉、極楽極楽♪ 下界ならではの豪華な食事
今年の山行きは年相応の呑気な旅に終始したが、平の覚さん、船窪小屋での皆さんと楽しい出会いが多かった旅だった。